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第32話 正体はまだ知られない。でも、もう何も知らないままではいられない

last update publish date: 2026-09-06 19:00:45

非常階段の踊り場に落ちた沈黙は、妙に薄くて、でも逃げ場がなかった。

 風が吹いている。

 校庭のざわめきも、遠くから聞こえる笑い声も、文化祭らしい賑やかさも、全部ちゃんとそこにあるのに、この狭い踊り場だけが別の時間へ切り離されたみたいだった。

 久瀬湊人は、三人の顔を順に見た。

 鳴海すばる。

 顔色が少し悪い。いつもの“推しに似てる!”と騒ぐ時の熱ではなく、もっと静かで、本気で信じたくないものに触れてしまった人の顔をしている。

 倉科紬希。

 声も出せないみたいに固まっている。彼女はもともと大きく感情を表へ出す方ではない。だからこそ、その沈黙が今どれだけ大きいかがわかる。

 柊坂真白。

 二人の反応を見てから、ようやくこちらへ鋭く視線を向けた顔。まだ断定はしていない。でも、“今のは何だったのか”をきちんと聞こうとする目だった。

 何か言わなくてはならない。
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     月曜日の朝、久瀬湊人は目覚ましが鳴る前に目を開けた。 眠れなかったわけではない。 けれど、深く眠れた感じもなかった。 文化祭の日の非常階段。 たった数秒の通話。 振り返った先にいた、三人の顔。 鳴海すばるの、信じたくないものを聞いてしまった顔。 倉科紬希の、声も出せないほど揺れた顔。 柊坂真白の、“今のは何”を飲み込んで立ち止まった顔。 どれも、目を閉じるとまだ鮮明だった。 正体はまだ知られていない。 でも、もう何も知らないままではいられない。 その感覚だけが、朝の胸のあたりへ重く残っている。「……行くか」 小さく呟いて、布団を出る。 制服に袖を通し、鏡を見る。 顔色は悪くない。 少なくとも、教室へ入る前に「何かありました」と言っているような顔ではない――たぶん。 そう思いたいだけかもしれないが、今日の自分には、その“たぶん”に縋るしかなかった。     ◇ 教室の扉を開けると、思っていたよりいつも通りの朝の音があった。 椅子を引く音。 誰かが笑う声。 廊下から聞こえる別クラスのざわめき。 世界は、文化祭の翌日に秘密が少し揺れたからといって、都合よく止まってはくれないらしい。 日野は前の席でスマホを見ながら「あー、今日だる」といつも通りのことを言っている。 真白は席についていて、窓の外を見るふりをしながら、実際には周囲の空気をかなり拾っているのが分かる。 すばるはまだ来ていない。 紬希もまだだ。 そのことに、少しだけ安堵してしまう自分がいる。 同時に、その安堵が情けないとも思う。「おはよう」 真白が先に言った。

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    非常階段の踊り場に落ちた沈黙は、妙に薄くて、でも逃げ場がなかった。 風が吹いている。 校庭のざわめきも、遠くから聞こえる笑い声も、文化祭らしい賑やかさも、全部ちゃんとそこにあるのに、この狭い踊り場だけが別の時間へ切り離されたみたいだった。 久瀬湊人は、三人の顔を順に見た。 鳴海すばる。 顔色が少し悪い。いつもの“推しに似てる!”と騒ぐ時の熱ではなく、もっと静かで、本気で信じたくないものに触れてしまった人の顔をしている。 倉科紬希。 声も出せないみたいに固まっている。彼女はもともと大きく感情を表へ出す方ではない。だからこそ、その沈黙が今どれだけ大きいかがわかる。 柊坂真白。 二人の反応を見てから、ようやくこちらへ鋭く視線を向けた顔。まだ断定はしていない。でも、“今のは何だったのか”をきちんと聞こうとする目だった。 何か言わなくてはならない。 それだけは分かる。「……今の」 先に口を開いたのは真白だった。「何」 短い。 けれど、その一語に必要なものが全部入っている。 今の声は何だったのか。 どうしてここで一人で通話していたのか。 なぜ、学校で聞く久瀬湊人の声とは少し違うものが、あんなふうに出たのか。 湊人は一度だけ喉を湿らせるように唾を飲んだ。 正面から答えることはできない。 でも、完全に黙るのももう無理だ。「……少し、外の連絡です」 ようやく出た言葉は、それだった。 自分でも、弱いと思う。 曖昧で、いつもの逃がし方に近い。 けれど今の自分に出せるのは、その程度だった。「外の連絡って」 すばるが言う。 声がかすかに掠れている。「何、その&hel

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    文化祭当日というものは、朝から空気の密度がおかしい。 普段と同じ校門。 普段と同じ校舎。 同じはずなのに、色と音だけが少し浮いている。 まだ一般来場者が本格的に入る前だというのに、廊下には段ボールを運ぶ音がして、教室の扉は半分開いたままになっていて、どのクラスも「今だけは特別です」という顔をしている。 装飾の紙が揺れ、テープの切れ端が床へ落ち、誰かの「それこっち!」が別の誰かの「もう時間!」に重なる。 久瀬湊人は、その騒がしさの中に立ちながら、すでに朝の時点で少しだけ疲れていた。 いや、身体が疲れているわけではない。 問題は神経の方だ。 今日のスケジュールは、かなり綱渡りだった。 学校側では、文化祭の準備と当日運営。 クラス展示の備品管理、導線確認、来場者の流れの調整。表立って仕切るわけではない。だが、放っておけばどこかが少しずつ崩れる場所に、自然と自分が入っていく構造になってしまっている。 一方で、夜ではなく、今日は昼にもAstraLink側の大事なオンライン企画がある。 完全な配信本番ではないが、事前の接続確認と短い顔合わせ、それから本編直前の最終打ち合わせ。しかも今日は大型企画ゆえに、自分が欠けるとややこしい。 どちらも欠けられない。 その事実だけで、朝から胃の奥が少しだけ重い。「久瀬、これ教室の後ろに回すやつ?」 日野の声で我に返る。「はい、それで大丈夫です」「りょーかい」 日野は段ボールを抱えたまま笑った。「朝から先生みたいだな」「やめてください」「でもわかる」 すばるが装飾の紐を結びながら言う。「今日の久瀬くん、完全に“静かな進行役”の顔してる」「顔でそこまで分かるものですか」「分かるよ」 真白が即答した。「今朝からずっと“何かあったら全部拾います”って

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